ジョシュア・グリーン著「モラル・トライブス」を読んで

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正月休みに、ジョシュア・グリーン著「モラル・トライブス − 共存の道徳哲学へ」上下2巻を読みました。読んでない人にはチンプンカンプンかもしれませんが、自分用の備忘録として書いておきます。

私の解釈で少し色づけして要約すると、ざっと以下のようになります。

人間の脳が道徳的な問題に判断を下すとき、2つのシステムが同時並行処理をしている。ひとつは、カメラで言えばオートモードに相当する情動で、脳の主にVMPFC(前頭前野腹内側部)と扁桃体に局在する。もうひとつは、マニュアルモードである理性で、主にDLPFC(前頭前野背外側部)に局在する。情動は、処理速度は早いが近視眼的であり、ときに間違いを犯す。理性は言葉による思考であり、時間はかかるが融通が利く。しかし、しばしば情動による決定を尻拭い的に正当化しているだけの場合もある。たとえば「権利」という言葉は、情動の名詞化・正当化にすぎず、明確な存在論拠を証明できないので、議論や思考実験の際には使うべきでない。

この2つのモードのクセを知り、うまく使い分けることが重要である。「コモンズの悲劇」と呼ばれる、個vs部族の対立は、情動に任せれば、協力によってマジックコーナーを見つけるという方法で、大抵はうまく解決する。しかし「常識的道徳の悲劇」と呼ばれる、部族vs部族の対立は、情動では解決できず、むしろ対立を助長する。そこで必要なのは、理性による解決である。

著者は理性による解決法を功利主義(深遠な実用主義)と呼び、それは「幸福を公平に最大化する」ことであると言う。

最後の方に、部族vs部族の対立の実例として、中絶の是非をめぐる議論が書いてあります。著者自身も属する、米国北部を中心としたリベラル派には中絶容認派が多く、南部を中心とした保守派には中絶反対派が多いそうです。「胎児の生きる権利」vs「妊婦の選ぶ権利」という構図ならば、生きる権利がまさるのでしょうが、権利という言葉を使って議論してはいけないのですから、幸福の最大化を論点にしなくてはいけないわけです。著者自身も明確な結論に至っておらず、非常に歯切れの悪い議論なんですが、この功利主義の手法に従えば、どちらかというと中絶容認派の主張が優勢なのではないか、ということでした。

選択的人工妊娠中絶につながる出生前診断についても、このような考え方で検討してみる価値はあると思いまた。その場合、障害児を産む産まないを選ぶ妊婦個人vs社会という構図なのか、それとも、選択的人工妊娠中絶容認派vs反対派、つまり部族vs部族の構図なのか…

もう一つ感じたのは、部族vs部族の対立が情緒モードのせいで激化するのは、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教など、一神教の部族同士だからという点も無視できないのではないか、ということです。一神教は他の部族が信じる神を完全否定するからです。一方、日本人の多くは多神教または無宗教で、他の宗教には寛容です。世界紛争の解決には、日本的な曖昧で八方美人的な交渉が非常に有効かもしれない、なんて思いました。

P.S.
昨年12/3に書いた中絶に関する記事は、自分でもなんとなくしっくり来てなかったのですが、本書を読んたあと、もう一度じっくり考え直したいと思ったので、一旦取り下げることにしました。

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